ちょっと前の話しになるが、あるお客様から駐車場に「障害者専用」という文字の記入の仕事をいただいたことがある。
あちこちの公共駐車場で、路面にそういった表示の施された場所があって、公民館などの学習的施設の場合は、かなり駐車場が混み合っていてもそこは該当者のために確保されている印象はある、が場所によっては、無頓着に駐車するケースも少なくはないようだ。
こうしてみると、こういったマークというのは、該当者のためにあるのか、そうでない人のために表示すべきなのか迷うことになる。
目の不自由な人が車を運転するケースは現在ではまず考えられないから、その表示はどちらかというと該当しない人に「ここには駐車しないで」というメッセージを伝えることが目的だろうか。それでも「障害者」という表現には素直に納得できなかった。
人それぞれに心身には特徴がある。いわゆる「障害」といわれていることも、そのひとつに過ぎないのでははないかと常々思っているので、制度の話以外ではあまり「障害者」という言葉を使いたくなかったのだ。
珍しいことではないが、私にも複数の、いわゆる「障害」を持つ知り合いがいる。とはいえ彼等とのつきあいはそれほど日常的ではなく、当時まだ小さかった私の子どもが、初対面だった彼等に対して、「ちょっと怖い」という素直な印象を持ったこともある。もちろんすぐに彼等がごく普通の人だということは理解した。
バリヤフリーという言葉をよく聞くようになった。手すりをつけたり段差を無くしたり、ドアの構造を変えたり、点字表示など、身体的に「障害」を持つ人の社会参加のためのいろんな仕掛けのことだといえばわかりやすいが、たぶんその言葉の本質はもう少し奥の方にあるように思う。「障害者」あるいはそれに対する「健常者」という言葉が、単に使われなくなるだけでなく、気持ちの中にもそんな概念が存在しない社会。そしてそれは単に身体的な特徴だけにとどまらない。
今年もこの2ヶ月間、この地方の町にいながら、日本が初めてというオランダの若者たちと一緒に暮らすチャンスがあった。彼等には町中の看板の殆どが役に立たない。シャワーの温度調節装置のお節介なおしゃべりも何の意味もない。私たちの町では月に一度、防災サイレンの吹鳴試験がある。たまたまそのとき、私たちは彼のアパートメントに夕食に招かれていたから問題はなかったが、仮に実際に災害が発生でもしていたらどうだっただろうか。
うまく説明できないが、私たちの社会がおよそ多数派の論理で動いているということと、今話題のテロリズムや原理主義とは、どことなくつながりがあるのかもしれない。たとえば「障害者」と称されることで傷つく障害者がいるかもしれない。そんな配慮を欠いた看板を、気付かないうちに作ったりはしていないだろうか。
例の駐車場へは、車椅子マークを大きめにあしらい「身体の不自由な方のための駐車場です。」とすることでお客様からも了解していただいた。
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